「機会平等」と「結果平等」の選択?はたまた折衷?
「結果平等社会」は、いかにも社民党や旧・社会党系の人、そして日教組など親方日の丸の労働団体が好む社会主義的発想だ。
象徴的なのは小学校の運動会にありがちな「徒競走を皆で手をつないで、皆が同時にゴールして一等賞」というヤツだ。競走になってない。ただのランニングだ。
「ゆとり教育」だって同じようなものだ。40人に同じ説明をしたって、40人から同時に同じ理解度を得るのは奇跡だ。普通は有り得ない。どうしても理解度に差が出る。どこをターゲットに授業をすべきか?一番レベルの低い所に合わせようとすれば時間が要る。だから、ゆとり教育だ。全体の教育レベルが下がるのは予定通りの結果だ。
一般的な労働者の発想であれば、結果平等社会の心地良さは当然だ。人間はジョギング程度の快い負荷で結果が見える作業をして、予定通りの達成感を味わいたいものだからだ。そして、「出来ることならラクして人並み以上にオイシイ生活をしたい。」と願う者が増殖しているのも現実だ。心の底にそういう気持ちが全く無いと言い切れる人は少数派と確信する。
そして、大多数のルーチン・ワーカーは、自分の所属する組織でジョギング程度の快い労働をして、定時から翌日の始業時までと、定休日と有給日の全ての時間を使ってプライベートの楽しみを謳歌したいと願っている。そして、プライベートを楽しむ原資として、常に期待値以上の給与が欲しいと願うものだ。
また、どんなに衣食住が満たされようとも、自分の周りと比べて見劣りすると恥ずかしい。嫉妬されるほどでなくても、見劣りしない程度に、出来れば「内心は周りより少し良いと思える」程度であるのが心地良い。成績や順位とか優勝劣敗がハッキリする指標はプレッシャーがかかって不愉快だから敬遠したい。
こんな労働者の集団から、ハングリーな外国の途上国を上回る労働生産性を得られるのだろうか?一人ひとりの労働者にとっては、実感の無い他人事かも知れないが・・・。
こういう「ぬるま湯」の環境で快適に生きた時に、世界の強豪と競合して勝ち抜く人が現れるのだろうか?産業、技術、学術、スポーツ、経営、金融、政治、文化、芸術、思想…と、今や日本のあらゆる分野が世界と競合して生きている。好む好まざるによらず、鎖国政策は許されない現実がある。そんな世の中なのに、この先、日本が結果平等社会を進めて行ったとき、世界に誇れる人材を輩出して、日本が安堵できる将来を描けるのだろうか?
「格差」とは何だ?要は収入など経済力の差が広がっていることだろう。
ビジネスの世界にいる人の話によると、人間の総合的な能力とは、「技能」×「意欲・情熱」×「考え方」らしい。3要素が「掛け算」になっているのがミソで、どれが高くても、何かがゼロなら、その人の能力はゼロだ。この能力の考え方は、オレも共感できるし、救いがある。偏差値という技能だけで人間の能力が決まるものじゃない、という事が証明できるからだ。
そして、オレは、この「3要素の掛け算の結果」と「収入」が、最近は相関して来ていると思う。
偏差値が低くても、意欲・情熱が誰よりも強くて、考え方が時流を得ていれば、ビジネスで大成功して高収入を得る人がいるだろうし、いくら偏差値が高くて、意欲が人並みにあっても、考え方が時流に合ってなければ一円も稼げない人が出て来る。偏差値が高くて考え方が時流を得ているヤツでも、情熱の無いヤツは空論で終わってしまう。
そうやって周りの連中を見渡すと、稼いだカネに格差がつくのは当然だと思うのだ。というか、まだまだ「稼げるハズのない」人が、能力以上に稼ぎ過ぎている気がする。それは何かと言えば、結果平等社会の恩恵で、能力以上に評価されて収入を得ている人が多いのではないだろうか?
今はコンプライアンスが厳しくなって、「考え方」の不正が厳しく糾弾されて、一瞬で収入をゼロにさせる力学が働く。これは良いことだと思う。
一方で、身体障害者のようなハンディキャップのある人が、一般の生徒と一緒に学校へ行きたくても、学校側で平等の扱いが出来ないし、十把一絡げのコンベア作業のように教育したいのに、一人に構うのは面倒臭い。だから、教育現場は万が一のリスクを理由にして入学を拒否する。生活保護など社会保障制度でハンディキャップがあっても一定の経済的な手当てをしているから、いいだろう?という理屈なのかも知れない。それは、本当に平等なのだろうか?
オレは、とことん「機会平等」を追求するのが健全だと思う。
結果平等社会は、世界の中で生きている現実を思えば排除せざるを得ない発想だし、しかも本音は偽善に満ちていると感じるのだ。そして、結果平等社会の偽善にシラけた若い衆が着実に増殖して、生きる意義さえ見失って、引きこもったり漂ったりしているのだと思う。
ただし、セイフティ・ネットは必要だ。しかし、セイフティ・ネットとは単に必要最小限の快適な衣食住やカネを提供することよりも、本質は生きるモチベーションを喚起させるカウンセリングだ。これは物凄く難しい事で、役人根性の十把一絡げ的な発想でやろうとしても絶対に実現できないと思う。だからこそ、本来ボランティア精神?の旺盛な社会主義者が注力すべき活動とは、こういうことじゃないかと思う。こういう活動で救われた人達は底堅い票田になると思うので、オレが社民党や民主党の旧・社会党系勢力だったら、小泉サンの上げ足取りで騒々しい街宣やったり国会審議を停滞させて自爆するヒマがあるなら、こういう事を追求して行く。その方が地道だが建設的じゃないだろうか。
格差社会めぐり論戦 衆院予算委で集中審議 [ 02月28日 09時14分 ] 共同通信
Excite エキサイト : 政治ニュース
衆院予算委員会は28日午前、小泉純一郎首相と関係閣僚が出席して「構造改革と地方経済」に関する集中審議を行った。「格差社会」をめぐる論争が焦点になる。
野党側は、小泉政権の構造改革により所得、資産の格差が拡大したと主張。ライブドア事件などを引き合いに改革のひずみを浮き彫りにし、政権批判を強める構え。
首相は格差の拡大を否定する一方、「格差が悪いこととは思わない。多くの人がチャンスをつかむ機会を提供することが大事だ」と主張、構造改革続行に理解を求める。
一方、与党側は「努力した者が報われる社会」を目指す立場を強調。首相を援護する見通し。
自民党の町村信孝前外相、葉梨康弘、公明党の桝屋敬悟、民主党の細川律夫、松野頼久、共産党の笠井亮、社民党の阿部知子、国民新党の糸川正晃の各氏が質問。
象徴的なのは小学校の運動会にありがちな「徒競走を皆で手をつないで、皆が同時にゴールして一等賞」というヤツだ。競走になってない。ただのランニングだ。
「ゆとり教育」だって同じようなものだ。40人に同じ説明をしたって、40人から同時に同じ理解度を得るのは奇跡だ。普通は有り得ない。どうしても理解度に差が出る。どこをターゲットに授業をすべきか?一番レベルの低い所に合わせようとすれば時間が要る。だから、ゆとり教育だ。全体の教育レベルが下がるのは予定通りの結果だ。
一般的な労働者の発想であれば、結果平等社会の心地良さは当然だ。人間はジョギング程度の快い負荷で結果が見える作業をして、予定通りの達成感を味わいたいものだからだ。そして、「出来ることならラクして人並み以上にオイシイ生活をしたい。」と願う者が増殖しているのも現実だ。心の底にそういう気持ちが全く無いと言い切れる人は少数派と確信する。
そして、大多数のルーチン・ワーカーは、自分の所属する組織でジョギング程度の快い労働をして、定時から翌日の始業時までと、定休日と有給日の全ての時間を使ってプライベートの楽しみを謳歌したいと願っている。そして、プライベートを楽しむ原資として、常に期待値以上の給与が欲しいと願うものだ。
また、どんなに衣食住が満たされようとも、自分の周りと比べて見劣りすると恥ずかしい。嫉妬されるほどでなくても、見劣りしない程度に、出来れば「内心は周りより少し良いと思える」程度であるのが心地良い。成績や順位とか優勝劣敗がハッキリする指標はプレッシャーがかかって不愉快だから敬遠したい。
こんな労働者の集団から、ハングリーな外国の途上国を上回る労働生産性を得られるのだろうか?一人ひとりの労働者にとっては、実感の無い他人事かも知れないが・・・。
こういう「ぬるま湯」の環境で快適に生きた時に、世界の強豪と競合して勝ち抜く人が現れるのだろうか?産業、技術、学術、スポーツ、経営、金融、政治、文化、芸術、思想…と、今や日本のあらゆる分野が世界と競合して生きている。好む好まざるによらず、鎖国政策は許されない現実がある。そんな世の中なのに、この先、日本が結果平等社会を進めて行ったとき、世界に誇れる人材を輩出して、日本が安堵できる将来を描けるのだろうか?
「格差」とは何だ?要は収入など経済力の差が広がっていることだろう。
ビジネスの世界にいる人の話によると、人間の総合的な能力とは、「技能」×「意欲・情熱」×「考え方」らしい。3要素が「掛け算」になっているのがミソで、どれが高くても、何かがゼロなら、その人の能力はゼロだ。この能力の考え方は、オレも共感できるし、救いがある。偏差値という技能だけで人間の能力が決まるものじゃない、という事が証明できるからだ。
そして、オレは、この「3要素の掛け算の結果」と「収入」が、最近は相関して来ていると思う。
偏差値が低くても、意欲・情熱が誰よりも強くて、考え方が時流を得ていれば、ビジネスで大成功して高収入を得る人がいるだろうし、いくら偏差値が高くて、意欲が人並みにあっても、考え方が時流に合ってなければ一円も稼げない人が出て来る。偏差値が高くて考え方が時流を得ているヤツでも、情熱の無いヤツは空論で終わってしまう。
そうやって周りの連中を見渡すと、稼いだカネに格差がつくのは当然だと思うのだ。というか、まだまだ「稼げるハズのない」人が、能力以上に稼ぎ過ぎている気がする。それは何かと言えば、結果平等社会の恩恵で、能力以上に評価されて収入を得ている人が多いのではないだろうか?
今はコンプライアンスが厳しくなって、「考え方」の不正が厳しく糾弾されて、一瞬で収入をゼロにさせる力学が働く。これは良いことだと思う。
一方で、身体障害者のようなハンディキャップのある人が、一般の生徒と一緒に学校へ行きたくても、学校側で平等の扱いが出来ないし、十把一絡げのコンベア作業のように教育したいのに、一人に構うのは面倒臭い。だから、教育現場は万が一のリスクを理由にして入学を拒否する。生活保護など社会保障制度でハンディキャップがあっても一定の経済的な手当てをしているから、いいだろう?という理屈なのかも知れない。それは、本当に平等なのだろうか?
オレは、とことん「機会平等」を追求するのが健全だと思う。
結果平等社会は、世界の中で生きている現実を思えば排除せざるを得ない発想だし、しかも本音は偽善に満ちていると感じるのだ。そして、結果平等社会の偽善にシラけた若い衆が着実に増殖して、生きる意義さえ見失って、引きこもったり漂ったりしているのだと思う。
ただし、セイフティ・ネットは必要だ。しかし、セイフティ・ネットとは単に必要最小限の快適な衣食住やカネを提供することよりも、本質は生きるモチベーションを喚起させるカウンセリングだ。これは物凄く難しい事で、役人根性の十把一絡げ的な発想でやろうとしても絶対に実現できないと思う。だからこそ、本来ボランティア精神?の旺盛な社会主義者が注力すべき活動とは、こういうことじゃないかと思う。こういう活動で救われた人達は底堅い票田になると思うので、オレが社民党や民主党の旧・社会党系勢力だったら、小泉サンの上げ足取りで騒々しい街宣やったり国会審議を停滞させて自爆するヒマがあるなら、こういう事を追求して行く。その方が地道だが建設的じゃないだろうか。
格差社会めぐり論戦 衆院予算委で集中審議 [ 02月28日 09時14分 ] 共同通信
Excite エキサイト : 政治ニュース
衆院予算委員会は28日午前、小泉純一郎首相と関係閣僚が出席して「構造改革と地方経済」に関する集中審議を行った。「格差社会」をめぐる論争が焦点になる。
野党側は、小泉政権の構造改革により所得、資産の格差が拡大したと主張。ライブドア事件などを引き合いに改革のひずみを浮き彫りにし、政権批判を強める構え。
首相は格差の拡大を否定する一方、「格差が悪いこととは思わない。多くの人がチャンスをつかむ機会を提供することが大事だ」と主張、構造改革続行に理解を求める。
一方、与党側は「努力した者が報われる社会」を目指す立場を強調。首相を援護する見通し。
自民党の町村信孝前外相、葉梨康弘、公明党の桝屋敬悟、民主党の細川律夫、松野頼久、共産党の笠井亮、社民党の阿部知子、国民新党の糸川正晃の各氏が質問。
by darkmind628 | 2006-02-28 12:21